遠藤喨及ものがたり
(えんどうりょうきゅう)
第1部
〜14歳
ニューヨークで新聞配達
東京に生まれ。父親が映画会社・東映のニューヨーク支店長に赴任したため、10歳から13歳までニューヨークで暮らす。
ニューヨークでは、地元の小学校、中学校に通い、新聞配達(夕刊専門の新聞)の少年として、集金にも回っていた。
時は、ベトナム戦争の頃(1967〜1969年)。
ウッドストックのポスターが街中に貼られ、ビートルズのCome Together がラジオから流れ、ヒッピー達が裸足で歩いていた。
マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺された日はワシントンDCにいて、暴動が起こったため、ホテルから出られなかった。
日本に帰る直前、ジョン・F・ケネディに続いて、弟のロバート・ケネディも暗殺された。
〜18歳
高校を2つ中退し、バンドに
帰国後は、地元の中学校に編入する。
学校にはなじめず、夜中に家を抜け出し公園などをウロウロしながらタバコを吸う等をしていた。
中学卒業時から、ヒッチハイクで野宿しながら全国を旅するようになる。
慶応高校に入学するが、1年生の秋からは家出を繰り返すようになる。
とうとう長期に亘って家には帰らず、中退する。
家出中、年齢を偽って夜中の土方などをしていた。
半年後には、家出したまま都立井草高校に編入する。
経済的に立ち行かず、ディスコバンドのギタリストの仕事を得たことをきっかけに、都立高校も中退する。
〜20歳
仏教との出逢い、指圧との出逢い
17歳の頃から精神的に苦しみ、鎮痛剤の過剰摂取、リストカットなどの自己破壊行動を繰り返すさなか、音楽演奏中に神秘体験を得る。これをきっかけに、「悟りの世界」に憧れるようになる。
その後、念仏道場に通い、修行するようになる。(18歳後半)
神風特攻隊帰りのお坊さんに師事し、東京からヒッチハイクしては、その寺によく泊まり込んでいた。
バンド仲間の1人に指圧を受けて感激。東洋医学に興味を持つようになる。
当時、「清和荘」という高円寺の有名なボロアパートに住んでいた。(三畳一間/六千円で、外人ヒッピーが多く住んでいたので、雑誌プレイボーイにも紹介された)
清和荘の外人に、見よう見まねで憶えた指圧を施したところ、「これならアメリカでもヨーロッパでもお金を稼げるぜ」と言われ、指圧学校への入学を決意する。(20歳)
〜23歳
宗教体験、ゲームの発明、経絡指圧の創始者・増永静人師との出逢い
念仏修行の結果、自他を超えた体感の中で、仏と融合するという、圧倒的な宗教体験を得る。
”この体験を人々と分かち合うため、いつか必ず僧侶となろう”と決心する。
指圧学校卒業後は、清和荘で暮らしながら、念仏道場で修行。
バイオリンを学び、また時おり、フランス語やドイツ語を学ぶこともあった。
さらに自ら考案した戦略ゲーム(後のニンジャ・ホープ/チャトランガ)の制作に没頭する。
※ゲームのシステムは、その後10年の歳月をかけて完成させる。
経絡指圧の創始者・増永静人師の晩年の講習を受けて感激。
ツボと経絡の研究に勤しむようになる。
〜27歳
インド放浪後、経絡診断に開眼、精神病院で臨床
生涯、世界放浪の人生を送るつもりで、片道のチケットと祖母の遺した20万円を持って日本を出国。
インドを貧乏旅行。しかし3か月後、シルクロードを抜けてヨーロッパへ向かう途中、マラリアに罹患。帰国を余儀なくされる。
(帰りのチケットもお金もなかったのに帰れたのが奇跡! という驚くような話、、、)38話&39話
38話 http://taosangha.com/2013/11/04/j-20131104-2/
39話 http://taosangha.com/2013/12/02/j-20131202/
失意の帰国後、経絡指圧講習会の同窓生が開業するにあたり、手伝いを頼まれ、石川県に行く。臨床に従事している内に、氣や経絡が見えるようになり、証診断に開眼する。(26歳)
爾来、経絡に基づいた指圧を人々に教えるようになる。
沖縄にも講習に2、3度訪れた結果、名護の精神病院の院長の招聘を受け、1年間、患者さんの臨床と職員の指導に従事する。
〜30歳
西洋人相手の指圧教室
出版する当てのない本の執筆を、長野の温泉街で、出張指圧のアルバイトをしながら始める。(現在の「決定版 タオ指圧入門」講談社α文庫)
2度目、さらに3度目のインド放浪をした後、京都に移住。
京都では、主に西洋人を相手に指圧の教室を開くようになる。
また、この頃の京都での指圧の患者さんには、人間国宝の歌舞伎役者、任天堂の先々代社長、河合塾の先代理事長などがいた。
一方、1人で孤独な念仏修行を続け、中央仏教学院(通信)の専門課程に入学。
また、2つの流派の合気道の稽古に通う。(稽古は時折、一日4時間にも及んだ)
〜35歳
得度、海外講習、本の出版、CD、合気道
浄土宗にて得度する。得度式には大勢の西洋人の生徒さんたちが列席する。
ハワイ講習、イスラエル講習などを皮切りに、オーストラリア指圧世界大会、ヨーロッパ指圧国際会議、北米指圧大会等々に講師として招聘される。
※海外講習はその後も定期的に続き、世界12か国に及んだ。
英訳された原稿が「TAO SHIATSU」として、海外で出版される。
本書はその後、イタリア語、スペイン語、フランス語、ヘブライ語、ドイツ語で出版された後に、日本語で法蔵館から出版される。
※さらに二冊の著書、「<氣と経絡>癒しの指圧法」、「氣の経絡指圧法 安らぎのツボ 実技篇」(講談社+α新書)を上梓。多くの読者を得る。
合気道・黒帯を取得。
メジャーレーベルから1枚目のCD ”Song of Pure Land ”をリリース。
(笛、中国琴、ギター、シンセサイザーなどの楽器を、すべて自分で演奏して多重録音したもの)
その中の一曲は、香港のラジオ番組のテーマ曲となっており、1日10回、5年間に亘ってオンエアーされる。
*楽曲は、現在も尚、ラジオ、テレビに提供されている。
第2部
2003年
〜2010年
海外支援、道場建設、中東和平、住職就任
約150人が参加した第一回タオ指圧世界大会が、2003年にタイのパタヤビーチで2週間に亘って行われる。
メンバーと共に作業に従事し、タオサンガ東京道場を建設。
その3年後、やはりメンバーと共に作業に従事し、タオサンガ京都道場を建設する。
個人でスリランカに井戸を三基建設した後、NPO法人を立ち上げ、バングラデシュの少数民族仏教徒のための学校を作り始める。
*以後、毎年バングラデシュを訪問して活動を続け、現在、運営する小学校は4校に至っている。
この時点で、5冊の書籍、2巻のDVDブック、5枚のCDアルバムを発表している。(現在、8冊の著書、7枚のCD、3巻のDVDブックに至っている)
中東平和教育会議で講師を勤める。この時、初めてパレスチナ内を旅し、中東の真実の姿に触れる。(それまでは9回、イスラエル側でのみ、ワークショップを行っていた)
旅中、パレスチナ西岸・ビリン村のデモに参加して催涙弾の涙を体験。
またイスラエル政府に家を追い出されて路上で暮らす、パレスチナ人難民一家へのボランティア指圧なども行う。
和田寺の住職に就任する。
東エルサレムの路上で
2011年
〜2018年
東北支援、チャリティ・フェス開催、アースキャラバン始動
オーストリア講習中に、東北大震災が起こる。
帰国してすぐに東北に向かい、現地でボランティア指圧に従事する。
・NPOアースキャラバンは、以降、3年に亘って、被災地に週二回野菜を送り続ける一方、指圧ボランティアを月2回、加須市の避難所に送り続ける。
・自らのバンドで被災地へ演奏とボランティア指圧のツアーなどを行う。
東北への支援金を集めるチャリティ・フェスティバルを京都で開催。
以後、3年に亘って開催する。
*三年目は、約100万円の支援金を東北被災地、ガザ、バングラデシュなどに送る。
発明したゲームが、i-phone アプリになる。
再びタイで、第三回・タオ指圧&サンガ世界大会が、参加者180人以上で行われる。
この時、戦後70年目の2015年に、世界巡礼アースキャラバンを開催することが決まる。
翌年、中東での開催のために、当てもなくガザ空爆中のパレスチナに入る。
(10日間の内に、イベントパートナーを探さなければならなかった)
*この間のすったもんだの一部は、
ブログ
https://endo-ryokyu.com/past_blog/?p=10216
から何話かに亘って掲載されている。
アースキャラバンのテーマ曲、”SHARE!”を創り、これを世界18か国のミュージシャンたちが、それぞれ独自の言語とアレンジでレコーディングする。
https://endo-ryokyu.com/past_blog/?p=10623
・アースキャラバン広島開催のため、パレスチナの時と同じように、イベントを開催するパートナーを求めて、広島を歩き回る。
・アースキャラバン2015は実現し、無事開催される。
広島ー東京ーヨーロッパ各地ー中東
※以降、アースキャラバンが毎年、世界各地で継続して開催される。
長崎ー広島ー東京ーカナダーヨーロッパー中東
2019年〜
バチカンでのローマ教皇謁見、「希望の火」
2019年3月20日、広島原爆の残り火をバチカンへ運び、ローマ教皇に謁見。核や武器廃絶の象徴として、これを吹き消してもらう。
パレスチナ人の少女を連れての対面は、目的の1つだった。またこの時、遠藤喨及に同行したのは、国際アースキャラバンのメンバーと、ノーベル平和賞受賞者のサーロ節子さん、世界各地の4人の少女たち(キリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒)を含む、総勢22人であった。
これをきっかけに、人類の祈りを1つの火に込めていくことで創る「希望の火」プロジェクトを立ち上げることになった。
<パレスチナ人少女が手渡した「原爆の残り火」を吹き消してもらう>
「希望の火」プロジェクト ー1つの地球、1つの人類、1つの心ー
「国籍、宗教の壁なく、人類が祈りで繋がる未来を創りたい」 そんな願いから始まった。
どうしたらそれを実現できるのか?
そこで考えたのが………
古(いにしえ)から灯し続けてきた、歴史的な炎を合わせること。
そこに人類が、世界の平和と自由、幸せと喜びの祈りを込めて行くこと。
であった。これは、世界の人々が手に手を取って共に創り上げる、言わば無形の霊的モニュメントだ。
根底になるのが、平和な地球の未来なので、これを「希望の火」と呼ぶことにした。そして、バチカンから帰国した半年後、「長崎誓いの火」を最初の種火としてスタートした。
浦上天主堂で長崎誓いの火を種火として希望の火が誕生
出発地となったのは、長崎市の「祈りの三ゾーン」と呼ばれる、教会と神社と寺が集まった地点。ここからチームと共に、自転車で出発した。
出発式の様子
その後、日本各地の様々な宗教者の方々、市長、また、学校の生徒さんたちや障害者の方々等にも、祈りを込めてもらいながら、各地を行脚した。
その途上においては、広島/平和の火や「原爆の残り火」、本願寺の常灯明(750年間)なども合祀(集火)。
約二ヶ月後に東京に到着し、11月23日にはローマ教皇の東京ミサで「希望の火」を灯す。そうして、東京ドームに集まった、5万人の祈りが込められた。(3万500人参加の長崎ミサでも同様のことを行った)
ローマ教皇 東京ミサにて
その後、「希望の火」をヨーロッパにを送り、各地で灯され、市長や宗教者たちの祈りが込められ続けている。さらに、イエス生誕教会/パレスチナの「聖なる火」も合祀した。
現在は松本市で、この火を常灯する「希望の火・平和パコダ」の建設を進めている。
Share the Journey
世界各地で、平和への祈りが込められた火を灯す、最新のニュースを受け取ることができます。